雪に埋もれる永平寺に参禅してきた。
案内図にそって、東司、僧堂を通り仏殿から法堂に入いる。そこで、若き僧侶たちがなにかの練習をしている場面に遭遇した。深々と雪が降るなか、彼らは板間に素足である。僕など靴下を二枚ばきしてなお、冷たくて足が千切れそうだと悲鳴を上げているのにだ。
「曹洞宗は所作が非常に細かく決まっていて、やることが多いから、若い僧侶はああやって練習をしなきゃいけない」と一緒に行った方が教えてくれる。
曹洞宗の開祖、道元禅師の教えに「悟りのために修行をするのではない。修行そのものが悟りである」というものがある。
聞いたときはただ「目的もなくただ修業のために修業するって、スゲェな」くらいにしか思わなかったが、暴力のような寒さのなか、修業のために練習を積む若き僧たちを目の当たりにして、この教えの凄まじさが体感できた。
だって、ゴールなく、キツイ時間を過ごすんだぜ?
たとえば、ボクシングなどの体重制限のあるスポーツの場合、減量が過酷を極まるという話はよく聞く。でも「試合をするため」という大きな目標に向って耐えることができる、というのは想像可能だ。だが、試合もないのにただキツイ減量だけをやり続ける、というのは想像できない。
なぜ道元禅師は、そんな過酷なことを教えとしたのだろう?
過酷を積むことに、なにか意味があるのだろうか?
そんなことを考えながら、僕は降り続ける雪を見ていた。ただなんとなく雪を見ていた。そしたら「ある考え」が降ってきた。
「考えてはいけない」ということではないか。
過酷な修業をしている間は、余計なことを考えることはできない。そこに、意味があるのではないか。若き修行僧たちとは厳しさがまったく違うが、僕が伝えている心理テクニックについても「考えてはいけない」ことはまったく同じだからだ。
心理スキルやテクニックを伝えていると「頭だけで理解しよう」もっと言えば「小難しい理屈をこねて頭の中に知識として埋め込もう」とする人たちが少なからずいる。
もちろん、僕はそれを否定しない。心理スキルや心理テクニックをそのように楽しむ人たちがいてもいいし、それはその人たちの自由だ。ただ僕はその人たちに向かない、と言うだけである。
僕は「使える」ことを、最大のテーマにしている。
そのためには使ってもらわないといけない。
やり方を知る、まずやってみる、上手くいくことも上手くいかないこともある、それぞれの理由を考えまたやってみる、そうして精度を上げていき、最後には使えるようになる。
この流れが僕の理想である。だから「まずやってみる」を重要視している。
「頭だけで理解しよう」とする人たちは「まずやってみる」前に、僕からしたらどーでもいい小難しいことをグチャグチャグチャグチャ考える。考えるだけで、やらない。やらないから、まったく一切身につかない…
繰り返すが、僕はそれを否定しない。心理スキルや心理テクニックをそのように楽しむ人たちがいてもいい。ただ僕はその人たちに向かない、と言うだけである。
道元禅師の「悟りのために修行をするのではない。修行そのものが悟りである」という教えを、「考えてはいけない。行動せよ」と解釈するのはまったくの見当違いかもしれない。が、それでもいい。いまこの時点で、僕が永平寺にのぼり、若き僧侶の修業を見て、こうして想いを馳せたことには必ず意味がある。
というか。
ここにこうしてグチャグチャグチャグチャ書いている時点で、
僕自身、言動不一致のアウトじゃんね。
猛省なり。
illustration たかみまさひろ